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1年前の今日と、8年前の今日。 [プロローグ]

2006.12.23~1.26 016.jpg

1年前の今日は、
私達家族5人が7年間暮らした東京のマンションで過ごした最後の日。

荷造りのダンボールが山と積み上げられた部屋の中で、
最後の荷造りと掃除に追われていたんだっけな。

夫と二人で最初に暮らしていたのは練馬のミュージシャンズマンション。
家の半分がドラムに占領された、布団一枚分の小さな居住スペースで
仲良く過ごしていたのです(笑)

それからご縁があって、東京のはずれの羽村に引っ越して、

長女が生まれ、

次女が生まれ、

長男が生まれました。

小さな部屋の中で、いっぱい笑っていっぱい泣いて、
時々大きな喧嘩をして。
子供たちが走り回って、たくさん怒られて。

玄関を開けると見えるのは、すぐ傍の小さなお茶畑と、遠くに広がる山の景色。
その景色を見ながら、毎朝、夫の姿をみんな揃って見送ったのが、
なんだかもう、遠い遠い昔のことのよう。

小さな森のようちえんを開いて、ささやかながら、かけがえのない時間を
仲間達と、たくさん過ごしました。

小さな町だったけれど、住みやすくて、大好きだった町。
こどもをおぶって、ベビーカーを押して、みんなでどこまでも歩きました。
春も、夏も、秋も、冬も。


東京での引越し作業が終わった後、少し滞在していた実家から、
一人で忘れ物をとりに帰ったことがありました。

一人で歩く道々が、あまりにも静かで、
まるで音のない世界に迷いこんでしまったようで、
ああ、もうここは私の住む場所ではないんだ。
そう思ったら寂しくて、ボロボロ泣きながら一人で歩きました。


空っぽの部屋の靴箱の中に、ポツンと置き忘れた長男の靴。

おばあちゃんから買ってもらったばかりのその靴は、
結局、中島への引越しの道中でどこかに失くしてしまったのだけど。

最後まで、私らしいなぁ。そう思ってちょっと笑って。

ありがとうございました!って思わず敬礼をしてドアを閉めたら、
その瞬間に、気持ちは中島へ。
おっしゃー!いくぞーーー!!!!って、足取りも軽い帰り道。

家族で家を出る時にはバタバタだったから、
きっとこの儀式のような時間のために、私は忘れ物を取りに戻ったのだと思うのです。

リフォームされた新しい部屋で、
今頃どんな人たちがどんな時間を過ごしているのしょうか。


そして、今日は!
私達の8回目の結婚記念日です!!
そう、羽村での最後の日は7回目の結婚記念日で、
ものすごい日が節目にきたなと二人で驚いたものです。

8年間。
ここまで、誰かと真剣に向き合ったことがあったかなと思います。
ここまで、誰かと力を合わせたことがあっただろうかと。

基本は超仲良しだけど、
個性がぶつかり合い、時に激しい喧嘩もする私達。
でも、その衝突のエネルギーが、新しい道を拓いて、ここまできました。
それぞれ一人でも行ける場所だったら、とっくに一人で行ってます。
二人でしか行けない場所を目指して!

この間、夫がポツリと。
「お前と結婚してから、面白いことばっかりだなー」って。

確かに(笑)

予想もつかない人生です!

明日はどっちだ!?




乾杯~っ♪





























経緯 その十 中島初上陸 [プロローグ]

PIC_2013.JPG


20代の頃は
オートバイが好きで、よく遠出をした。
衝動的に遠くまで行きたくなり
夜中に出発、高速道路を500~600キロくらいは
なんの苦もなく走れた。
その時の経験から
夜の道路は空いている、
そんなイメージだけで夜の出発を決めた。
東京~愛媛 グーグルで検索して約800キロ。
まあ行けるだろうと軽い気持ちで
20:00過ぎ、僕らは近くのインターから
とりあえず中央道、大月Jctを目指した。
この日、体調は優れなかった。
この時点、僕個人としては
中島への移住は反対に近かった。
だけど正解をはじき出すには
思想だけでは足りず、行動とハプニングが
プラスして必要なのだと知っていた。
何かに当たってみないことには
ハプニングそのものは起こりえず、
そして本当の進むべき道はハプニングが起きた後
自然に浮かび上がってくるものと強く信じていた。
あの時、実は半分嫌がる自分をねじ伏せるようにして
アクセルを踏んでいた。
この時点で僕は全くの無職。
妻と三人の子どもを抱えて
不安のあまり
発狂寸前の瞬間もあった。
その気持ちを薄皮一枚で正気と並行させる。
ここが勝負時と心得た。
挑戦するなら、安全を最優先にはできない。
だが同時に
一刻も早く「給料をもらって」生活する自分に戻りたい。
そんな願望が僕にブレーキをかけるようにも感じて
気持ちは常に揺れ動く。
もともと体調も悪かったせいか
異常な疲労感を覚えながら僕は中央道を走っていた。

大月JCTから富士方面へ進路を変え、
富士五湖道路、国道138号線を経由して東名高速へ。
あとは→伊勢湾岸自動車道→新名神高速道路
→名神高速道路と来て京都に入ったのが
2:00AMくらいだっただろうか。
驚くほどの大型トラックの量。
僕が若かった頃と物流のシステムが変化したのか
たまたまこの日が混んでいたのかは不明だが
スピードものらず、またテールランプ等の乱反射などで
目も疲れ
眠気と合わせて危険な状態となったため
急遽京都東インターで降りて簡易宿で一泊することに。
転がり込むようにして部屋へ入ったのだが
何かが僕の中で昂り、極度の疲労を感じつつも
すぐに熟睡できなかった。
それでも三時間ほど眠ったのだろうか
再び運転を再開、した矢先
渋滞。渋滞。渋滞。
吹田市付近どこもかしこも大渋滞。
丁度、谷の底のような格好で高速道路が走っているために
他の一般道を見上げる形になっていて
その一般道も渋滞。渋滞。渋滞。
今思い出してみると、今回の移住計画、最大のピンチ場面とも。
あの時ばかりは家族と話すのも苦痛に感じるほど
心は平静を失っていた。

結局なんとか普通に車が流れ出したのは山陽道に入ってからで
スピードは上がっていくものの、
テンションは全く上がらず、疲労と眠気と、そして
最大の敵、自らの弱気との終わりの見えない闘いが
続いていた。
そしてほとんど戦意喪失、ただ惰性だけで先へと進んでいた時、
僕の目の前に瀬戸大橋がその雄姿を現した。
与島PAでの休憩時、そこからは瀬戸内の島々が見渡せた。
この日、全国的な猛暑で与島PAもやはり暑く
子ども達はPAのサービスで、霧状に噴霧されているシャワーの下を
歓声を上げて何度も行ったり来たりしていた。
もう一歩、もう一歩先へ。
ギリギリのラインで僕はまた先へと進むことが出来た。
それは瀬戸内の島々の美しい風景が、
理屈抜きで
僕に力を与えてくれたのだと今は思う。

三津浜港に到着、中島行のフェリーに車を載せ、
デッキに上がったころには
僕はある種、「真っ白な」気持ちになっていた。
兎に角にも辿り付いた
そんな気持ちだった。
そしてそんな僕の目の前に中島が見えてきた。


続く













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経緯 その九 とりあえず中島へ [プロローグ]

IMG_0929.JPG

富士山の物件をすっかり気に入ってしまった僕は
なにかすっきりとしない妻の反応に
なんとなく出鼻をくじかれた感じでいた。
僕としては次々とテンポよく話を具体的に進めたかったので
住居を決めた後は仕事を、とばかりに
地元河口湖町やその周辺の町の求人を調べていた。
焦りがあった。
間を空けたくなかった。
手っ取り早く衣食住を揃えたかった。
自分たちのライフスタイルはその後
時間をかけて少しづつ築けばいいと思っていた。
人間、7年も付き合っていると
言葉などドンドン必要でなくなり、
相手の考えていることがダイレクト過ぎるほどに伝わることが多い。
彼女の富士への移住への熱の低さは
これから勢いが大切な道のりへと進むべき僕らとしては
マイナスポイントと感じた。
東京へ帰ってからというもの
僕らはずっと移住プランについて話していた。
富士へ引っ越すのか。
他の場所を探すのか。
他の場所を探すとして、また一からそこを訪れて
住居や仕事を探すのか。
段々と堂々巡りの話になり
富士に行く前の前途洋洋とした気分が
しぼみつつある。
途切れた会話の後に
「どうする?」との僕の問いに
「じゃあ、もう富士山でいいよ」
的な妻の答え。
直感としてこれは違うと感じた僕は
とりあえず富士山行きは保留に。
改めて他の移住先を二人で検討することにする。
すると彼女が
「実は農音のT中さんにメールを出していて、一度来てみてはどうか、と返事を
もらっている」
とのこと。
移住にあたってはあらゆる意味でゼロ発進したかった僕は
既存の団体に世話になること自体物憂く
気が進まなかった。
が、事態は行動を必要としていた。
きっかけは望んだものでは無かったが
ではとりあえず、行ってみますか中島へ
ということへなった。

つづく




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RE:経緯 その四 ~河口湖に行ってみよう!~ [プロローグ]

IMG_2246.JPG


RE:経緯 その四

今までの暮らしを一新して、移住をしよう!という
大まかな方向性まではとりあえず決まり、
各地方自治体の移住支援窓口や、
過疎地域の小学校存続をかけて移住者を募る活動をされている団体、
そして、「農音」など、
色々とコンタクトをとってみるものの、
最初のうちはなかなか思うようにことが進みませんでした。

東京でのサラリーマン生活を捨てて、家族5人で田舎へ移住!
それは、夫にとって、本当に大変な覚悟が必要なものだったと思います。

でも、行動の源が、ネガティブなものだと、大概のことはうまく進まないんですよね。
「今」から逃げ出すだけだと。

2人の覚悟が本当に決まるまでの少しの時間は、
ただ空回る、けっこう苦しい時間でした。

だけど、ぎりぎりがけっぷちで掴んだものは、大概ほんもの!
だから、覚悟さえ決まったら、全て、動き出す。流れ出す。

ちょっとだけ回り道をしたような、そんな時間すら、
全て、全て、必要なものだったのだけど。

と、話は少しそれましたが・・・

そもそも、

移住 = 夢の田舎暮らし♪ = 憧れの古民家♪という私に対して、

「俺は、原始的な暮らしはしたくない!古民家とか全く興味ないから!!」

と、今や築100年の家に住み、
毎日薪でお風呂を沸かしている夫がこの時点では言っており(笑)
目指すゴールは同じだけど、そこへのルート選択が、全然違う感じ。
噛み合ってない~。

それでも、なんとか、2人の妥協点を見つけるべく、
とりあえず、東京からのアクセスもよく、縁があり慣れ親しんだ
移住候補地の第一番目として、河口湖町へ目星をつけました。

河口湖町は、そのアクセスのよさから、
東京との二住生活をする方も多く、大変人気のある土地。
そのため、私達が探していた「一軒家の貸家」というものは非常に少ないのです。

町の空き家バンクも、条件のいいものは、
即日で決まってしまうことも多いのだとか。

事前に、ネットで大手の不動産情報はチェックしていたのですが、
やはりほぼ一軒家の貸家に関しては情報がなく、

ここは、大手不動産というよりは、地元の地域密着型の不動産に、、、
ということで、
ネットで調べた電話帳の不動産に、上から順に電話をしてみることに。

その中のひとつが、Wさんの不動産。

「今、一軒家は扱ってないんだけど・・・

あぁ、そういえば、いいのがありますよ!

友達の家なんだけど。

ちょっと待っててください」

と、早速連絡を取って下さって、
おー!なんかこういう流れいいじゃん!なんて、
間取りもよくわからないまま、

「中は見たことないけど、けっこう広いと思いますよ」

という言葉だけを頼りに、
取りあえず、見せていただくことになったのです(笑)

目指せ!河口湖町!!


※因みに、私達が移住に際して、非常に参考にさせて頂き、
一時期毎日のように訪れていたHPは、こちら。

JOIN  ニッポン移住・交流ナビ
http://www.iju-join.jp/


RE:経緯 その一 ~3.11後の世界で~ [プロローグ]


PIC_0976 (595x443).jpg


今回の移住、私と夫で、視点の違う部分多々もあります。
せっかく夫婦仲良く更新しているブログなので、
夫と妻、それぞれの目線を比較して読んでいただけると面白いかと思い、
主人の書いたプロローグ日記に併せて、
妻視点での日記も書いてみたいと思います。

少し前置きが長くなりますが。

私が、移住に至った経緯を辿れば・・・
助産院での長女出産や、
自主保育での子育て、
いや、もっと遡れば、私の生い立ちや、前世にまでも
遡れそうな気がしますが(笑)

やはり、あの日が大きな堺になったのでしょう。。。

「3.11」

私はあの日、長女・次女の2人を連れて、
朝から、首都圏の自主保育を繋ぐネットーワークである
”しんぽれん”の定例会に参加するため、
世田谷は羽根木公園の、プレーパークにいました。

羽根木プレーパークには、実は、独身時代に一度、
ガムランコンサートを聴きに、一人訪れたことがあって、
(日程を間違えていて、やっていたのはタイの影絵でしたが・・
通称”サザエさん”の、私の人生こんなんばっかりです(汗))
その時、その場の持つ、異様に懐かしい匂い!?に驚き、
そこが、プレーパークなる、子供の遊び場だと知ってドキドキしたことを、
母になり、自主保育やプレーパークに興味を持つようになって思い出し、
改めて興奮したものです。

プレーパークとは、

「自分の責任で自由に遊ぶ」 
はたまた
「心が折れるくらいなら、骨が折れたほうがましだ!」

などのモットーを掲げ、日本各地で繰り広げられている
こどものための遊び場です。

子ども達が自由に火を熾したり、廃材を使って秘密基地を作ったり、
モチロン、どんなに泥んこになったって叱る大人はいません。

羽根木公園プレーパークにも、子ども達が作った、
沢山の、見事な秘密基地が立ち並び、
以前訪れた時にも増して、
子供時代にタイムスリップしたような、不思議な時間が流れていました。
私が大切にしている感覚のひとつに”なつかしさ”というものがあって、
これまで歩いてきた道の中で、”なつかしさ”というものは、
いつも、道しるべになっていたような、そんな気がするのです。

朝からのしんぽれん定例会が終わった後、
プレーパークでこども達と遊び、
泥んこになった洋服を着替えていたところで、地震は起きました。

地震については、今改めて書くまでもないような気がしますが、
今までに体験したことのない揺れに、
大変なことがおこったのだということだけは、はっきりとわかりました。

ただ、不思議なぐらいに、私は不安を感じませんでした。
うまく言えないのですが、あのプレーパークという場が持つ、懐かしい空気。
そして、そこに集う人たちに、深く関係があるように思えました。
ここにいれば、大丈夫。そう心から、思ったんです。

しかし、2人の子供を連れ、電車を乗り継ぎ
2時間ほどかけて羽根木まで来ていた私は、
これは、帰れないかも・・・・と、直感で感じ、
とりあえず、駅に急ぎました。





会社から歩いて実家に車を借りに行き、
渋滞で全く動かない道を越えて、夫が迎えに来てくれたのは、
それから何時間後のことだったでしょうか。

徒歩で家路を急ぐ人たちの波に追い抜かされながら、
車載モニターで、私達が見たものは、
今までに見たこともない、戦慄の映像でした。

あまりに現実感がなくて、映画みたいだなって、思いました。
うそなんじゃないかって。うそだったらいいのにって。

そして、原発の事故のニュース。
福島に縁があり、一時は移住の話もしていた福島に、
原発があったことすら知らなかった私達。
この時には、まだ何も、知らなかった私達。


震災は、私にとってあまりにもショックな出来事で、
目の前の子育てでせいいっぱいで、
何も出来ない自分をふがいなく思うと同時に、
ただ、ひそかに心に決めたことがありました。

それは、3.11を、自分の出発点にすること。

3.11を機に、気づいてしまった、沢山のこと。
溢れ出す、たくさんの想い。

それをもとに、何か、前向きで大きな一歩を、踏み出すことを。

それを思うたび、いつも、私はなんであの時、
あの場所にいたんだろう。
あの場所は、どこに繋がっているんだろう、そう、思っていました。


あ れ か ら、

震災の直後に長男を身ごもったこともあり、
それまで、大切にしていたはずの”お外で遊ぶこと”は、
迷いの連続でした。

雨の中で遊ぶこと。
木の実を食べること。
落ち葉で遊ぶこと。
砂や土で遊ぶこと。
草原に寝転び、空を見上げること。

そんな、それまで大切にしていた何気ないひとこまひとこまが、
不安でたまらなかった。

大丈夫?本当に、本当に大丈夫?

どう思う?そう仲間と確認し合いながら、
一歩一歩、歩いていました。

それでも。
それでも。

やっぱり自然は美しく、偉大で。
かけがえのないものでした。

ここで、生きよう!めいっぱい、生きよう!
そう、覚悟を決めたのは、長男が生まれてからのことだったでしょうか。

仲間達と、子ども達の成長を見守りあいながら、
忘れていたことを大切なことを思い出すような、あたたかい場所を作ろう。
何か、大切なものを、この手で作りだそう!ここで!!
そう、思うようになりました。

この世が、弱いものを守るように出来ていないのならば、
自分の手で、守らなきゃ。

そんな想いから、

脱原発の活動に参加したり、
福島の子供達の保養プロジェクトに、ささやかながら手伝いをしたりもしたり。

ここでやっと、主人の日記とリンクしますが。

RE:経緯 その一 

主人が、仕事をやめたいと言った日。

その日、私は、自主保育の仲間主催の、
鎌仲ひとみ監督の「六ヶ所村ラプソディ」の上映会を行っていました。

六ヶ所村ラプソディとは、
青森県の六ヶ所村に建設された使用済み核燃料処理施設の周辺地域で暮らす
人々を取材したリアルなドキュメンタリー映画で、

私は、この映画を見て、
「誰かの犠牲の上に成り立っているような、豊かな暮らしは、もういらない。」
そう、確かに、思ったんです。

だけど、私はずっと、ずっと、気づいていました。
結婚してから、私達を守るために、
自分の歩むべき道ではない道を、必死に歩こうとしている、
主人の存在を。

結婚して、母になってから、自分の生きるべき道を
おぼろながら思い出し、大切な何かを取り戻そうと、自分に正直に生きてきた私。
子供と過ごす毎日は本当に楽しく、
わずかながら、社会貢献すらしているような気がして、
少しばかり勘違いし、大切なことを忘れていたのかもしれません。

男だから、大人だから、父親だから。
自分を捨てて生きるのなんて当たり前って思う人もいるかもしれません。

でも、それって、本当に!?

本当に!?

それは本当に、幸せなことですか!?

こどもにとって、あなたにとって。

「いいよ」
と二つ返事で答えたのは、
来るべき時が来たのを、ただ感じたからなのかもしれません。
愛する家族と手をとり、大いなる一歩を踏み出す、その時が来たのを。

経緯 その八 農音 [プロローグ]

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時は前後して2013年1月。
通勤途中、ラッシュのJR立川駅で僕は電車を待っていた。
疲れていた。
仕事場には何一つ僕の能力を発揮できる環境はなく
生活のために
ただただ大学と自宅を往復する毎日。
安定はしていた。
休みも多かった。
会社に不満はなかった。
だが発展性のない毎日の職務は
少しづつ、少しづつ僕を蝕み
行き場の無いやるせなさを無限に増幅させた。
ある種、
無意識に
「移住、家族、離島」
などという言葉をグーグルに打ち込んでいた。
うつろな目でiphoneを見ているとそこに
「農業と音楽で地域を結ぶNPO」
のコピー。
ああ、こんな島があってこんな人たちが
こんな活動をしているのか。
風景も心の中も灰色に染まり
半ば夢を見るような感じで僕は思った。

ああ、こんな生き方もあるのか。

これが今回、愛媛中島への移住のきっかけとなった
農音と僕との出遭いだった。

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経緯 その七 [プロローグ]

IMG_0617.JPG

ここまではなるべく地元密着型というか、大手チェーンはあえて避けて
家を探していたのだが、
試しに「○イブル」にふらりと入ってみる。
早速、こちらの条件を要点を絞り、簡潔に伝える。
もの静かな店長のEさん
「少々お待ち下さい」と奥へ行き
しばらくするといくつかのファイルと共に戻ってきた。
このEさん、実に人の話をちゃんと聞いてくれていて
こちらのニーズに答えた物件を持ってきてくれた。
これはポイントアップ。
そしてその中から物件を二つピックアップ。
早速現地に向かうべく車を走らし
最初の物件である笛吹市へ。
河口湖より少し離れているが、
ちょっと面白そうな物件だったので見てみることにした。
30分ほど走ると現地に到着。
車を降りる
と。。。。。。。。。。。。。。。
暑い、暑い、熱い 熱いーーーーーーーー!
もうとにかく暑い。
街の印象がそれしかないくらい暑い。
物件自体は敷地も広く、地下室のようなスペースと綺麗にリフォームされた
キッチンやバスルーム、そこそこ広めの部屋と悪くはなかったのだが
とにかく暑い。
ニュースなどで甲府市などの夏の気温の高さは
なんとなく知っていたが、ここ笛吹市も凄かった。
とにかく冷房の効いた車内に戻ることしか考えられなくなり(笑)
次の物件へ。

お次の物件は河口湖。
オルゴールの森や河口湖猿回し劇場などの近く。
少し狭い道をEさんの車の先導で入っていく。
車を降りるとそこには絵葉書のような風景が僕らを待っていた。
写真を撮っておかなかったことが悔やまれるのだが、
庭の前が開けた田んぼになっており
その先には霊峰富士が。
家自体はこじんまりとした二階建ての家で可も無く、不可もなく
と言う感じだったが、この庭からの景色にやられてしまい
僕の中ではかなりこの家を気に入ってしまった。
来月からリフォームに入るとのことだったので
リフォームが終わる9月頃になったらまた連絡します、と
Eさんに伝えてこの日のリサーチは終了。
別荘に帰ってから
僕的にはかなり盛り上がり
間取り図を見ながらあーだ、こーだ
考えていた。
が妻の方はそれほど乗り気ではない様子。

つづく


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経緯 その六 [プロローグ]

IMG_0377.JPG

あくる日、河口湖周辺の仕事の状況を探るべく
富士吉田市のハローワークへ。
ここでびっくりしたのが、職員の方の対応の良さ。
結構、対応が悪い人っているんですよこれが。
失業中ってそういうのが必要以上に響いたりするので
職員の方にはデリケートな対応をお願いしたいところですが
なかなかそういう方ばかりではない。
たまたま僕の担当をしてくれた方が当たりだったのかも
知れませんが、現地の情報を集めたかった僕としては
テンションも上がりじっくりお話を聞けた。
当初は河口湖周辺で職を探すつもりだったが、
御殿場までのアクセスもそう悪くないため
そちらのほうがオススメとのお言葉。
御殿場には上場企業の子会社が多く存在し
福利厚生の面で有利な企業が多いとの情報。
御殿場といえばショッピングモールくらいの知識しかなかった
僕にとって貴重な情報で職の方は何とかなりそう
だと目星をつけハローワークを退出、
とりあえず、行き当たりばったりで不動産屋さんを
片っ端から回る。
どの不動産屋さんに行っても子ども達にお菓子のプレゼントが
あり皆大喜びだったが
お目当ての物件の方は
いくつか不動産屋を回るものの、なかなか僕らの条件に見合ったものが
見つからない。
この時点での僕らの条件とは

①駅、小学校、保育園、スーパーなどの施設から徒歩圏内で
ありつつも風光明媚でかつ、お隣さんとそれなりに距離がある家。

②家自体の古さは気にしないが、水周り(トイレ、キッチン、お風呂)は
できればリフォームされたものが望ましい。

特に②はその当時の僕が強く望んでいてのだが、妻はその点ツワモノで
別に汲み取りでもいいじゃん、などとサラッと言っていた。

住居探しは中々に難しい。
何軒目かの不動産屋さんで
「これはどうでしょう?」
と持ってきてもらったのが
いわゆる古民家
広い土間、茅葺きの屋根
縁側があって和室が7~8室ある平屋作りのお家で
特筆すべきは、水周りが綺麗に現代風にリフォームされていた。
このコントラストは僕らの興味を引き
早速見せていただくことに。
唯一つの難点はその立地。
河口湖ではなく西湖のほとりに建っている家なのだ。
小学校にはバスでなくてはきつい道のり。
リゾートとして確立している河口湖とは大違いの
原始の湖とでも言うべき西湖。
この部分には多少迷いもあったのだが
全ては見てから、と不動産屋さんの車の後を
わくわくしながら車を走らせる僕ら。
2人ともテンションはMAX。
この時点ではほぼこの場所に決まりかけていたほど
2人で盛り上がっていた。
だが
だが
だーがー

前を行く不動産屋さんの車に一台の自転車が近寄りなにか
話している。
しばらくすると申し訳なさそうに僕らの方へ来て、
「ごめんなさい、この物件、半年前に入居されてました。。。。。。」

ってアホかー

情報古すぎ、確認してから行こうよ。
俳優さんのような渋い風貌で颯爽とマウンテンバイクに跨ったこの男性
実は今から見せてもらうはずだった家の持ち主で
近くのキャンプ場を経営されているとのこと。
二言三言、会話を交わすもののテンションはダウン。
この日はこのままドライブして別荘へ帰り、
2人でワインを飲んだくれる。

続く


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経緯 その五 [プロローグ]

1.jpg

かくして河口湖へ到着
富士ヶ嶺近くにある別荘へ荷物を置き、
とりあえずリラックス。
僕らが移住地第1候補へあげた河口湖町
中央高速、大月JCTから富士山方面へ走られた方は
お分かりかと思いますが、ずっと上り道なのである。
という事は町全体の標高が高いということで
標高が高いということは、夏涼しいのです。
この「夏涼しい」というのと東京からのアクセスの良さ、
+何回も遊びに行って土地勘があるという
三つの主な理由により白羽の矢が立ったというわけです。

二日ほど普通に別荘にて避暑(当時去年の7月でした)した後
行動開始。
まず手始めに役場へ行き移住誘致の担当者の方と面談。
丁寧に話を聞いて頂き、対応としては好感触だったものの、
なんとなく話を聞いて終わり、という感じ。
市町村のやっている移住促進活動というのはあくまで
きっかけの一つとして捉えた方が無難、というのが僕らの感想です。
手取り足取り、移住を段取りしてくれる、といった性質の部門では
ないように感じました。
その日は役場に隣接している図書館を見学。
これが今まで見た図書館の中で、個人的には一番素敵な図書館で
河口湖町を訪れたら一度立ち寄ってみる価値はあると思います。

その翌日、自称「地元の有力者」W氏とコンタクトを取り、早速お会いする。
その風貌から地元の有力者というのもうなずけるほど、
ロマンスグレーの頭髪に鋭い目線、酒焼けした声
ただ者ではない雰囲気に満ちあふれた方でした。
そのW氏の案内のもと、一軒の平屋に到着。
家主ご夫婦とご対面。
温和で多少饒舌なご主人は近くで工場を経営されているとのこと。
見せて頂いた平屋は母屋の平米数が80平米ほどだっただろうか。
それなりの年数が経過してくたびれた建物であったものの、
水回りは奇麗にリフォームされ、庭からは富士山が見えた。
立地としても富士急行の河口湖駅から徒歩5分くらいで、
すぐとなりに保育園、小学校もあり、
僕らにはもってこいの条件。
ただ即答は避けて、二人でよく考えてまたご連絡しますと
その日は退去。

続く

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経緯 その四 [プロローグ]

IMG_2231.JPG

夏の休暇は福島で過ごし、
冬の休暇(およそ2週間)は妻の父上の別荘がある富士山で過ごすのが
結婚後、サラリーマン時代の我が家のスタイルだった。
原発事故後は夏の休暇もお借りするようになり
東京からのアクセスが良く、周囲に河口湖、本栖湖、白糸の滝などの美しい自然が
たくさんの富士山に行くことは子供たちも楽しみにしていた。
薪ストーブなどが設置してある素敵な別荘で
これまた優雅な休暇を毎年過ごしていた。
IMG_2172.JPG

実は今回の我が家の移住計画
最初からここ、愛媛 中島であったわけではない。
僕は仕事で国内各地へ住んだ経験はあったものの、
四国は行ったことすらなし。
妻は引っ越しの経験さえ結婚の時が初めてだったので
最初は候補地としては「遠すぎる」と思っていた。
転職先の会社を退職した翌日、
僕らは早速、富士山へ向かっていた。
とりあえず別荘に身を置きながら
河口湖町の移住促進担当者へのコンタクトと
電話で問い合わせた、
自称「地元の有力者」の不動産屋さんのWさんと会うこと。
住む先も仕事も何も決まらないままに
僕らは慌しく荷物を車に詰め込んで
家族5人
中央高速をかっ飛ばしていた。


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